昭和52年02月01日 朝の御理解
御理解 第51節
「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え。」
さまざま信心がありますけれども、本当にお道の信心は人間がいよいよ幸福になっていく事の為の信心だと言う様なものを、例えばこの51節から感じます。何なりとも人間の幸せになっていく事の為のことならば、もうどう言う事でも願える。例えば牛馬のことに至るまでと言う事でも、なら牛馬が助かる為ではなくて、人間が幸せになる為に牛馬のことまで願えと仰ったのです。牛が可愛そうだから、馬が可愛そうだから願えじゃない。人間が幸せになる事の為に牛馬の事に至るまで願えと仰る。
但し実意を持って願えと。実意と言う事はまあいろいろに説かれますけれども、やはり本当の心と言う事だと思うんです。人間のいうならば本心。人間の本心というものを洗うたらどう言う事になるだろうか。御理解3節の最後のところに、親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く。氏子ありての神、神ありての氏子上下立つように致すと言う所がありますね。神様が立って下さり、氏子も立ち行くという。いわゆる天地金乃神様、金光教でいう親神様というのは、そういう本質がこのであります。
いかに親神様と言うておっても、氏子が親神様と立てなかったらもう、親神様としての権威もあったもんじゃない。おられてもね、親神様のおかげでと、誰も言うものがいなかったらもう、親神様の権威はないも同じ事。それを私共がおかげを受けて、神様のおかげでと言うところに、神様の権威も出てくるし、神様のいうならばいよいよ、お心深く広く、分からせて頂いて、結果はどう言う事かというと、広く深くおかげを頂くと言う事に繋がる訳です。
もう真に人間が、我情我欲とは言わんでも、その人間が持っておる欲と思いというね、これは我情じゃありません。我欲じゃありません。自分の人間の持つ欲、人間のいろいろにさまざまに思う思い情念。それを満たして下さる。満たして下さるところに神様のおかげでと言う事になってくるのです。そこでどう言う事になってこなければならんかと言うと、いよいよその神様の絶対性、神様の一分一厘間違いのない、お働きを自分の上に頂き、受けていく手立て。
いうなら身の上のこと何なりともと、身の上安全を願え家業出精、五穀成就、牛馬のことにいたるまで、そういう人間の幸せになっていく事の為の要件を一生懸命お願いをする。それがまた本心でもあるのだから、一生懸命お願いをする。けれどもお願いをしたからというて、ならおかげになると言う事ではない。そこにはおかげを頂く道があるわけです。だからその道を体得すると言う事、夕べは月末御礼信話会でした。遅くからもう椛目の中島さんがお参りをしておる。
それでもう皆、発表終わっとりましたから、もう最後でしたから、最後に中島さん何か一言いってくださいと。言うて申しましたら、実は今日は子供達が二人、高校生と中学生が二人の子供がおられます。子供がニ階でなにか争い、喧嘩をしよる。「もうこの人達ばかりは」と言うて二階に上がって行ってから、ふと見るところ二人の子供が口を揃えて言う事が「お母さんもう僕達はねえ子供じゃないから、僕達の事は心配しなさんな」って二人が言うそうです。
そして「心配する心で信心せんの」ち言うた。みんな大笑いしましたことでしたけれどもね。私はそれを聞かせて頂きよってから、もうほんとうがったことを言うなと思いました。もう今からでもよかじゃんの、今日はあんた信話会じゃろうが。お話を頂いてこんの。ち言うた。それからもう9時過ぎたら、自転車でお参りをしてきて、もうあのここのお詫びだけに見えたわけです。もう僕達は子供じゃない。僕達は考えがあってから、だから、僕達の事は心配するな。その心配する心で信心せんのって。
私達にはかまいなさんなとこう言われる。私はもう本当に思うのはね、信心が分かってくると言う事は神様が分ってくると言う事です。神様が絶対と言う事が分って来る事なんです。分って来たらね、子供だんのことじゃないです。子供達に又はとやこう言うだんの事でもないです。親は親子供は子供で助かっていって、その助かっていく者同士が、まあ、あいよかけよになってこなければいけんのです。あいよかけよと言うのは、まあある意味でその同等なんですね。
こちらが五十の事をしてやったら向こうからも五十の事をしてもらう。百の事してあげたら百の事をしてもらう。それがあいよかけよ。なぜかというともうその実意と言う事を又、別の角度から今日は頂いておる訳ですけれども。実意と言う事が本音であり、本心であると言う事です。赤裸々に人間の心というものを洗って見る時にです、先日からテレビで当時の満州から引き揚げて帰ってくる時に自分の子供を殺したり、自分の子供をあちらの人にお金で売ったりしてきた人達が沢山あると言う事はね。
よく申しますね、背に腹は変えられんと言う事を申します。これはねもうそこまでいかなければ実際わからんのです。いかに子供がかわいいの、親が大事のと言うておるけれどもね、もういよいよの時には親もなかならければ子もないのです。問題は自分が助からなければならない。問題は親が助からなければならない、子供が助けらなければならない。なら助かると言う事はどう言う事かと言うと、神様を絶対と信ずると言う事です。またの御理解にありますね。
「金の杖をつけば曲がる、木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と。と言う事は何を物語るものでしょうか。その御理解を頂いて、なるほどそうだろうと、皆さんもわかられるだろうとね。お金がいくらあったって、実際はいよいよの時は、お金は役には立たないぞと。木や竹と言う事は、いうならば自分のどんなに手が強かっても、どんなに例えば素晴らしい子供を、皆もっとるからと言うても、その子供というのは、実際は頼りにはならないんだぞと。
自分のいうなら力と思うておった、自分の私にはこの腕があるからと言うてみたもののその腕だって実は役には立たんのだぞと。ほんとに当てになるものは神様以外にはないその神様以外にはない、その神様を杖につけば楽じゃと。だからの人間の安心立命の心というのはね、もう他の一切を絶対あてにしない。頼らない。ただ神様だけが、あてになるのだと言う事を分る事の為に信心はするのです。
なら子供が「お父さん、お父さん。お母さん、お母さん」って言うてくれる。だから「そうお父さんお父さん言うな」というのじゃないです。言うて来たら言うて来たでね、あぁもしてやりましょう、こうもあぁそうかって言えばそれでいいのですけども、こちらから頼ってはならないと言う事です。また実際は頼っておってがっかりすることばっかりなんですね。うちは息子が親孝行だからと言うて頼りきっておる。息子がですね、頼りにならないというて事実はいくらもある。
いやこりゃまあぎりぎりの話しが、例えばなら交通事故におうて死んだと言うたらそれですよね。そう言う事じゃなくてもです、例えば家の息子だけは間違いがないと思う。なら息子がです、間違いがなかろうけれども神様のように間違いがないと言う事はないのです。一番間違いがないのは神様です。だからその神様を杖につくから楽じゃ。そこに人間の楽と言う事は安心立命の心が頂けれる。その安心の心にです、人間の幸福のいわばあらゆる条件がね、子供も親孝行してくれる。
お金も次から次と入って来る。人間関係なんかは、もうぜんぜんその有り難い有り難い中に終わっていくと言う様なです、世界というものがあると言う事は、神様を絶対に信じた人の上に起きて来るのです。まあこのところ、いろいろ理屈をまあ申しますと、まあいろいろに言われましょうけれども、まあようは、神様をいかに信ずるかと言う事です。そこにはね、神様、いうならばどんなに頼りになるものでも、頼らんですむ私があるです。頼らんですむ私。
それこそ中嶋さんじゃないですけども、親が子供の事を言うて聞かせたり、心配したりして何になるです。もう僕達は子供じゃないから僕達の事は構わんでくれと、子供達は子供達で立ち行く事が一つの争いにもなったりね、仲むつまじくなったり働きになってくるわけですね。だから、私どもの事を心配するならその心配する心であんた神様に向かわんの。そこにはあんたが助かる道があるんだよと言うわけなんです。
これもう本当にそのとおりですよ。それを子供のことを心配してからああのこうのと言う。こりゃおかしい。もう神様にゆだね任せきらなければならない。親も子も。そこでほんとのやはり助かりというのは子供が助かり、親も助かると言う所からしかあの、いうならば神を杖につけば楽じゃと言った様なものはないように思います。今日は実意と言う事をね、たいへん冷淡に見ました。
もう実意とは横着のない心だと我儘にない心だと、ほんとに私共の心から横着、我儘をひいたら残るのは実意だと言う風に言われる意味ではなくて、実意と言う事を本音、本心と言う風に聞いて頂きました。人間のいうならどんなにそれはりっぱな人間でありましても、その本心というものはね、それこそ神様だけしかご承知ではない。その本心というものは、いわばいよいよ人間が、背に腹は変えられんと言う事になってくる時に、そこにはどうにも出来ない救いがたいものになってくるのですけれども。
私どもがひとたび心を神様に向けて絶対信、絶対の神様を信じられるおかげを頂いたときに、初めてなる程、神を杖につけば楽じゃと言う事になるおかげが受けられるのです。とにかく金は曲がる、木や竹は折れる。この事実をね、私共が先ず分らしてもろうて、そして神を杖につけばという神をただ、神様をいつも思うております。念じておりますというんじゃなくて、絶対信を杖につかなきゃいかんぞ。いけんのです。
その絶対間違いのない神様を誰もいなくなっても誰がいうなら構わなくなっても、どういうことを切り離されても、神様のこの神を杖につけばです、人間が幸福になっていくことの為の条件は、向こうのほうから押し寄せてくるのだと。いやぁ家は子供が親孝行だから、家にはこれだけお金があったからと言う様な事での幸せではない。神様を信ずるところから頂けれる幸福の条件であって、ほんとの幸福と言う事が言えれる。
あいよかけよとか、親にかかり子にかかりというのは、あいよかけよで段々幸せになっていくとか、親のことは子が願い、子のことは親が願いながらおかげになっていくというそういうものではなくて、そういうものを一辺打ち切り、打ち捨てていく。神様の働きの絶対を信じてその事になった時が初めてあいよかけよであり、親にかかり子にかかりというこれはもう神様のおかげの世界であります。
自分達が親子仲ようしていて。自分の努力で出来た例えば、親子が仲良いというてのは、こんなにあてにならないものはないと言う事を今日聞いて頂いたんです。自分の努力で貯めたお金やらは、こんなにあてにならんものはないと言う事を聞いて頂いたんです。神様のおかげで仲がようなり、神様のおかげでお金が貯まるというそのものでなかならければ幸せではない。それには私共は一応自分の本心に立ち返って、子供の事はかまいなさんなと、子供もまた私共のことを心配するなら神様にもっていきなさいと。
言う様な生き方をです。身に付けさせてもろうて、神様の絶対信。これはもうほんとにどんなにならもう、例えば親先生の生神様のと言うとってもですよ。いうなら例えば、ご信者さん方が、私とご信者さんの場合であっても、いよいよ背に腹は変えられんという時なったら、絶対親神様でもなかならければ、生神様でもないです。ただおかげを受けておるという間はね。
けれども、なら今日、神様の絶対を分らしてもろうておかげを頂いて初めて生神様が生神様として、親先生が親先生として生きてくるのです。天地の親神様でもそうです。私共がほんとにおかげを頂いてはじめて、いうならば真からのおかげを頂い、真からの神様を信ずる事が出来てはじめて神様を現した事になるのであるし、神様もまた、私共の為に、私共の幸せの条件を下さることの出来れる道がある。
それを宗教では、安心と言っております。いうならば、神を杖につけば楽じゃというところまで、お互いの信心が中々大変な事ですけれども、いま私共が頼りにしておる、いやこれだけはというものだけでも、自分が頼りにせんですむ、私になることならば至難なことではないのです。まずそこから、いうならば頼りになるものはない、もうありませんと分って頼りになるのは、神様あなただけですという信心になって、初めて本当の信心が頂けるというふうにも言えます。
どうぞ。